売上が200万消えていた ─ 信頼していたスタッフの横領

開業から半年。脅迫電話、ドライバーの事故、キャストへの性暴力──次々と起きるトラブルに対処してきた中村拓也の背後で、信頼していたスタッフが売上を抜き続けていた。確定申告の準備中に発覚した、帳簿と現実のあいだの巨大な溝。

二月十日。月曜日の午前十一時。

中村拓也は事務所のデスクで電卓を叩いていた。

確定申告の準備のために、開業以来の帳簿を通帳と突き合わせる作業をしていた。九月から一月までの五カ月分。地味だが、避けては通れない作業だ。

九月、十月、十一月──ここまでは、帳簿の数字と通帳の入金額、手元の現金の合計がきれいに一致していた。ずれがあっても数百円の端数で、記帳の丸め誤差の範囲だった。

十二月に入って、ずれた。帳簿上の店の取り分と、実際に通帳と現金に残っている金額の合計が、二十三万円合わない。帳簿の方が多い。

中村は自分の計算ミスだと思った。電卓を叩き直し、通帳を二回見返し、現金を三回数えた。

二十三万円。差額は動かなかった。

一月分も突き合わせた。差額は四十七万円に広がっていた。

田口翔太という男

田口翔太。二十九歳。中村が前の店でスタッフをしていた頃の後輩だ。

前の店では受付と経理補助を担当しており、中村とは一年以上、同じ事務所で働いた仲だった。中村が独立した後も、たまに連絡を取り合う関係が続いていた。

十一月に入り、店の売上が百七十万円を超え始めた頃、中村は一人で回すことの限界を感じていた。受付、配車、キャストの管理、ポータルサイトの更新、経理。ドライバーの山田が受付を手伝ってくれてはいたが、山田にはドライバー業務がある。

田口が前の店を辞めたと聞いたのは、十一月初旬だった。

「田口、うちで受付やらないか。」

「マジすか。ありがたいです。」

十一月八日から、田口は週五で事務所に入った。日当は一万五千円。中村が帰宅した後の深夜帯の精算業務も、田口が一人で処理した。

田口に現金管理を任せ始めたのは、十一月の第三週からだった。キャストが接客後に持ち帰る店の取り分を受け取り、受付ノートに金額を記録し、金庫に入れる。週に一度、銀行に入金する。

中村が田口にこの業務を任せたのは、田口しかいなかったからだ。

──いや、正直に言えば、信頼していた。前の店で一年以上、同じ数字を見てきた相手だ。金庫の鍵を渡すときも、一瞬の迷いもなかった。

配車記録との突き合わせ

十二月の二十三万円と一月の四十七万円。合計七十万円が帳簿と現実の間で消えている。

中村が次にやったのは、山田のドライバー日報との突き合わせだった。

山田は自分の報酬計算のために、送迎した案件を個人的に記録している。日時、キャスト名、場所、コース時間。この記録は田口の管理する受付ノートとは独立している。

中村は十二月分の山田の日報と受付ノートを一件ずつ照合した。

山田の日報には、十二月中に百二十一件の送迎記録がある。受付ノートの成約件数は百十件。十一件の送迎が、帳簿上は存在しないことになっていた。

十一件。六十分コースの店の取り分を平均八千円とすれば、約九万円。

残りの十四万円はどこへ消えたのか。受付ノートをさらに精査すると、九件の金額が不自然だった。九十分コースの料金が六十分として記録されている。百二十分が九十分になっている。差額は一件あたり三千円から六千円。合計で約四万円。

残りの十万円は、金庫から銀行への入金過程で消えていた。田口が毎週月曜に銀行へ入金する金額が、金庫に入れたはずの額より少ない。

一月分も同じ手法だった。送迎記録との差異が十四件。コースの金額操作が十一件。入金時の抜き取りが数万円。

中村は嫌な予感を抑えきれず、十一月分のノートも引っ張り出した。

消えた百七十四万円

十一月の突き合わせには丸一日かかった。

結果はこうだった。

十一月。送迎記録と受付ノートの差異:七件。金額操作:五件。推定被害額:約三十二万円。田口が現金管理を引き受けた第三週以降の二週間で、すでに手を出していた。

十二月。推定被害額:約六十八万円。年末の繁忙期で案件が増えた分、横領額も跳ね上がっていた。中村が山田の事故処理に追われていた時期と重なる。

一月。推定被害額:約四十七万円。ゆいの離脱で全体の案件数が減ったため、横領額もやや減っている。

二月は第一週しか経っていないが、すでに約十七万円の差異があった。

四カ月間の累計:約百六十四万円。二月末まで続けば、二百万円を超える計算だった。

中村はデスクに突っ伏した。

この四カ月間、中村は脅迫電話に対応し、ドライバーの事故を処理し、キャストへの性暴力に向き合い、経営者としてぎりぎりの判断を繰り返してきた。その間ずっと、信頼していた人間が背後で金を抜いていた。

十一月の利益は三十二万円だと思っていた。本来なら六十四万円出ていたはずだ。十二月も。一月も。中村がノートに書いてきた「利益」は、すべて田口に削り取られた後の数字だった。

対峙

二月十三日。木曜日の午後六時。

中村は田口にいつも通り事務所に来るよう伝えた。態度を変えないように努めた。山田には「今日は事務所にいてくれ」と頼んでおいた。

田口が入ってきた。

「お疲れ様です。今日の入電、どうでした?」

中村は田口を椅子に座らせてから、三枚の紙をデスクに広げた。山田のドライバー日報のコピー。受付ノートの該当ページのコピー。そして、差異をまとめた一覧表。

「田口。これ、説明できるか。」

田口は紙面に目を落とした。三秒で顔色が変わった。

「……何の話ですか。」

「十一月から今月まで、約百六十万円分の売上が帳簿から消えてる。山田さんの送迎記録と突き合わせた。やったのか、やってないのか。」

長い沈黙があった。事務所の壁時計の秒針だけが聞こえた。

田口が目を逸らした。

「……すみません。」

声は小さかった。

「最初は、出来心で一件分だけ抜いたんです。十一月に。バレなかったから、もう一件、もう一件って──」

「出来心で百六十万か。使い道は。」

「……競馬と、パチンコです。」

中村は天井を見上げた。自分が月七十万円の固定費に怯えながら、一円単位で経費を管理してきた金が、馬とスロットに消えた。

田口は椅子の上で小さくなっていた。前の店で隣に座って働いていた男の姿は、もうどこにもなかった。

警察か、示談か

田口を帰した後、中村は弁護士の早川に電話した。十一月の脅迫電話の件で相談した、新宿の弁護士だ。

「業務上横領は刑法二五三条で十年以下の懲役です。百六十万円の被害額なら、立件の可能性は十分にあります」と早川は言った。

「ただし、留意点があります。」

「一つ目。捜査の過程で、店の帳簿と売上記録がすべて捜査資料になります。この業界の経営者にとって、それが望ましい状況かどうか。」

「二つ目。被害届を出しても、金は戻りません。刑事と民事は別です。パチンコと競馬で使い切っているなら、民事で勝っても回収の見込みは薄い。」

「三つ目。立件から裁判まで半年から一年。その間、経営者のエネルギーがそちらに割かれます。」

中村は黙って聞いた。

「私の経験上、こうしたケースでは示談が現実的です。返済できる範囲で合意し、公正証書を作っておく。支払いが滞った場合に法的手段を取れるようにする。」

電話を切った後、中村は事務所の天井をしばらく見つめていた。百六十四万円が戻ってこない。それが現実だった。

示談

二月十五日。中村は早川弁護士に作成してもらった示談書を持って、田口と最後の面談をした。

内容はこうだ。田口は被害額百六十四万円の全額を認め、月五万円ずつ分割で返済する。返済が三カ月以上滞った場合、中村は被害届を出す権利を留保する。

田口は震える手で署名した。

「中村さん、本当に──」

「もういい。帰ってくれ。」

中村はそれ以上、田口の顔を見なかった。

田口が出て行った後、中村は金庫の鍵を交換した。銀行アプリのパスワードを変更した。受付ノートを新しいものに替えた。田口が触れたものを、一つずつ消していった。

仕組みの穴

田口の横領を可能にしたのは、中村自身の管理体制だった。

**一つ目、現金管理を一人に任せていた。** キャストから現金を受け取り、記録し、金庫に入れ、銀行に入金する。この一連の流れを田口一人で完結できた。受け取りと記録を同じ人間がやれば、数字の操作は容易だ。

**二つ目、配車記録と受付ノートの突き合わせをしていなかった。** 山田は毎日日報をつけていたが、中村はそれを報酬計算にしか使っていなかった。二つの記録を照合していれば、初月で気づけたはずだ。

**三つ目、信頼を仕組みの代わりにしていた。** 「田口なら大丈夫」という思い込みが、チェック体制を作る意欲を奪った。信頼は人間関係において重要だが、経営管理においては脆弱性でしかない。

中村は翌日から三つの対策を導入した。

現金の受け取りは、キャスト本人に金額と日時を記入させた受領書を作成する。配車記録と売上記録は日次で照合する。銀行入金は中村自身が行う。

飲食店を経営していた頃は、レジ締めのダブルチェックは基本中の基本だった。なぜデリヘルではそれを怠ったのか。「前の職場の仲間だから」という感情が、経営の原則を上書きしていたのだ。

二月の帳簿

二月二十八日。中村は新しいルールの下で、二月の数字をまとめた。

二月の総売上:百五十一万円。一月の百六十二万円からさらに減った。ゆいの離脱が続いているところに、田口の退職で深夜帯の受付が手薄になった影響が出ている。

固定費:七十二万円。田口への日当はなくなったが、弁護士費用(示談書作成)に三万円。利益は約七十六万円。

数字だけ見れば、過去最高の月間利益だ。田口の日当がなくなり、横領もなくなったことで、利益率は改善した。皮肉な話だった。

しかし、本来あるべき百六十四万円が手元にない。その重さは帳簿の数字には現れない。

田口からの最初の返済は三月末の予定だった。届くかどうか。中村は五分五分だと思った。

深夜、事務所の照明を落とす前に、中村はノートを開いた。

この半年間で、中村は多くのものを失ってきた。れなが他店に移り、ゆいが傷を負って去り、そして信頼した人間に金を盗まれた。

デリヘルに限らず、経営とは人を信じなければ回らない仕事だ。キャストを信じて客の元へ送り出し、ドライバーを信じて深夜の道を走らせ、スタッフを信じて金庫の鍵を預ける。だが、信頼だけでは経営は守れない。信頼を仕組みで裏打ちしなければ、信頼は簡単に崩れる。

信じることをやめるのではない。信じた上で、確認する。

中村はノートに書いた。

「信頼するな、とは言わない。確認しろ。」

三月が始まる。キャストの新規採用面接が二件入っている。金は消えたが、事業は止まっていない。止まっていない限り、まだやれる。

中村は新しいノートを開き、表紙に「三月」と書いた。

次回予告
第7回「バレたくないんです」─ 在籍バレと身バレが起きたとき へ続く