十一月十五日。土曜日。午後十時。
中村拓也は事務所のデスクで、十月の帳簿を見つめていた。
総売上:百六十二万円。開業以来の最高額だった。秋の繁忙期が来た。ポータルサイトの順位も回復し、キャスト三名体制が安定していた。固定費を差し引いた利益は約七十万円。一年前、この仕事を始めたときには想像もできなかった数字だ。
しかし、中村の表情は冴えなかった。
デスクの上には、帳簿の横に一通の封書が置かれていた。差出人は不動産管理会社。中身は、事務所として借りているマンションの賃貸契約に関する通知だった。
「管理組合の決議により、当物件における事業目的での使用を禁止する旨の規約変更が行われました。つきましては、現在の使用形態を三カ月以内に是正いただくか、契約の解除をお願いいたします。」
中村は封書を読み返した。三カ月。来年の二月十五日が期限だ。
事務所を失うということ
翌日、中村は不動産管理会社に電話した。
「規約変更の経緯を教えてください。」
「管理組合の定期総会で、住居専用規約への変更が決議されました。これまでも事業使用については黙認されていた面がありましたが、他の住人から苦情が出た経緯があり、総会で正式に禁止となりました。」
「苦情というのは、うちに関するものですか。」
「個別の苦情の内容についてはお伝えできません。ただ、深夜帯の出入りが多いという指摘があったことは申し添えます。」
中村は電話を切った。
デリヘルの事務所は、表向きは一般の事務所として賃貸契約を結んでいる。しかし、深夜のドライバーの出入り、キャストの待機、電話対応。近隣住人が不審に思うのは当然だった。
弁護士の早川に相談すると、こう言われた。
「管理組合の規約変更が適法に行われている場合、従う義務がある。争うことは理論上可能だが、風俗営業の事務所であることが明らかになれば、裁判所が使用継続を認める可能性は極めて低い。三カ月以内に移転先を探すのが現実的だ。」
中村は事務所の移転費用を計算した。新しい物件の敷金・礼金・仲介手数料で五十万円前後。引っ越し費用に十万円。届出事項の変更届出、ポータルサイトの情報更新。金銭的コストだけでなく、移転に伴う営業の空白期間も発生する。
五月の営業停止で三十五万円を失い、六月から八月のネット炎上で売上が大幅に落ち、ようやく十月に回復したところだった。ここでまた出費が重なる。
もう一つの電話
十一月二十日。中村の携帯に、見知らぬ番号から電話がかかってきた。
「中村さんですか。初めまして、藤原と申します。同業者の紹介で連絡しました。」
藤原は都内でデリヘル二店舗を運営する経営者だった。中村の店のことは、ポータルサイトで見て知っていたという。
「単刀直入に言います。中村さんの店を買いたい。事業譲渡の形で。」
中村は一瞬、言葉を失った。
「どうして?」
「うちは今、三店舗目の出店を考えている。ゼロから立ち上げるより、既存の店を買ったほうが早い。中村さんの店はポータルサイトの評価も安定しているし、キャストも定着している。顧客リストと電話番号をそのまま引き継げるなら、立ち上げコストを大幅に削減できる。」
「いくらで?」
「月商の三カ月分を基準に考えている。直近三カ月の平均月商が百四十万くらいだと聞いているので、四百二十万円。これをベースに交渉したい。」
中村は電話を切った後、しばらくデスクの前で動けなかった。
三つの選択肢
十一月二十五日。中村は早川の事務所を訪ねた。事務所移転の問題と、藤原からの買収提案。この二つを同時に相談するためだった。
早川はホワイトボードに三つの選択肢を書いた。
**選択肢A:事務所を移転して営業を継続する。**
メリット。この一年で築いた顧客基盤、ポータルサイトの評価、キャストとの関係をそのまま維持できる。十月の売上実績が示す通り、事業としては軌道に乗りつつある。
デメリット。移転費用が約六十万円かかる。新しい物件でも同じ問題(近隣からの苦情)が再発する可能性がある。風俗営業の事務所として使える物件は限られており、家賃が現在より高くなる可能性が高い。
**選択肢B:廃業する。**
メリット。すべてのリスクから解放される。この一年間、中村が直面してきたトラブル──クレーマー、事故、横領、行政処分、ネット炎上。これらと無縁になれる。
デメリット。一年間の投資と労力がゼロになる。ポータルサイトの掲載順位、顧客リスト、キャストとの信頼関係。すべてが消える。また、廃業届を出すだけでは負債は消えない。
**選択肢C:事業譲渡(売却)する。**
メリット。事業の価値を金銭として回収できる。藤原の提示額は四百二十万円。開業時の初期投資(約百五十万円)を差し引いても、二百七十万円の利益になる。キャストの雇用も引き継がれる可能性がある。
デメリット。自分が一年間かけて育てた事業を手放すことになる。譲渡後の運営方針は買い手に委ねられる。キャストへの対応が変わる可能性がある。
帳簿が語る一年間
中村は事務所に戻り、開業からの帳簿を最初のページから読み返した。
**十二月(開業月)。** 売上十八万円。初日の売上は一万八千円。電話が鳴らず、ひたすら待ち続けた月。
**一月。** 売上八十五万円。ポータルサイトの掲載を始め、少しずつ客がついた月。エースキャストの「りお」が入店した月でもある。
**二月。** 売上百二十万円。りおの指名客が増え、売上が初めて百万円を超えた。しかし月末にりおが突然辞めた。
**三月。** 売上九十五万円。りおの離脱で売上が落ちた。新キャスト「さら」を採用したが、立ち上がりに時間がかかった月。
**四月。** 売上百三十五万円。さらが軌道に乗り、客からの脅迫電話への対応も経験した。ドライバーが事故を起こしたのもこの月だった。
**五月。** 売上九十八万円。営業停止七日間。キャスト一名が離脱。ポータルサイトの順位が急落した。
**六月。** 売上九十二万円。ネット炎上が始まった月。掲示板の書き込みで客が激減した。
**七月。** 売上百十万円。発信者情報開示請求を進めながら、逆SEOに着手した月。
**八月。** 売上百三十五万円。逆SEOの効果が出始め、売上が回復した月。
**九月。** 売上百四十五万円。検索結果の改善が進み、新規客が戻ってきた月。
**十月。** 売上百六十二万円。開業以来の最高額。繁忙期の追い風もあったが、一年間の積み重ねが数字に表れた月。
十二カ月の総売上:千二百六十五万円。総経費(固定費・変動費・弁護士費用・移転関連費など):約九百八十万円。年間利益:約二百八十五万円。
中村はノートに書いた。
「一年間で二百八十五万円。月あたり約二十四万円。会社員の手取りと大差ない。」
しかし、この数字には含まれていないものがある。精神的なコスト。深夜の電話対応、クレーマーとの交渉、警察の立入調査、ネット炎上の恐怖。これらに値段はつけられない。
キャストたちの言葉
中村は決断の前に、キャストとドライバーに状況を説明することにした。事務所の移転問題と、事業譲渡の提案があること。
さら(元・りお)は静かに聞いていた。
「中村さんが決めることだから、私がどうこう言うことじゃない。ただ──もし店を売るなら、次の経営者がどんな人か、それだけは知りたい。」
「どうして?」
「この店で働いて、嫌な思いをしたことはないから。中村さんは約束を守る人だった。報酬は必ずその日に払ってくれたし、危ないことがあったら守ってくれた。次の人がそうかどうかは、分からない。」
みくは不安を隠さなかった。
「私、他の店で働いたことあるんですけど、経営者が変わると全部変わるんです。ルールも、報酬の払い方も、キャストへの態度も。中村さんの店だから続けてるんです。」
ドライバーの山田は言った。
「俺は中村さんの判断に従うよ。ただ、一つだけ言わせてくれ。この一年間、ろくでもないことばっかりだったけど、中村さんは一度も逃げなかった。それだけは事実だ。」
藤原との交渉
十二月一日。中村は藤原と会った。都内のホテルのラウンジ。
藤原は四十代前半。中村より十歳ほど年上で、業界歴は十五年だった。
「改めて条件を説明します。」
藤原が提示した条件は以下の通りだった。
**譲渡価格:四百五十万円。** 当初の提示額から三十万円上乗せされていた。直近の十月の売上が百六十二万円だったことを反映した修正だという。
**譲渡対象。** 届出名義の変更。ポータルサイトのアカウント引き継ぎ。顧客情報(受付ノートのデータ)。事務所の備品一式。電話番号の移転。
**キャストの扱い。** 現在のキャスト全員に継続の意思確認を行い、希望者はそのまま業務委託契約を引き継ぐ。報酬条件は中村の設定を維持する。
**ドライバーの扱い。** 山田にも継続の意思確認を行い、希望する場合は雇用条件を引き継ぐ。
**競業避止義務。** 譲渡後一年間、中村は同一エリアでのデリヘル営業を行わないこととする。
中村は一つずつ確認した。
「キャストの報酬条件を維持するという点、契約書に明記してもらえますか。」
「もちろん。」
「それから、キャストが辞めたいと言った場合、引き留めないこと。違約金を請求しないこと。」
「当然です。うちの既存の二店舗でも、そういう運営はしていない。」
早川の助言
交渉の内容を持ち帰り、中村は早川に報告した。
「条件としては悪くない。ただ、いくつか確認すべき点がある。」
早川は三つのポイントを挙げた。
**一、風俗営業の届出の取り扱い。** 無店舗型性風俗特殊営業の届出は、届出者個人に紐づいている。事業譲渡の場合、中村が廃業届を出し、藤原が新規に届出を行う必要がある。届出の空白期間が生じないよう、スケジュールを調整する必要がある。
**二、顧客情報の取り扱い。** 受付ノートに記録された顧客の電話番号は、個人情報保護法上の個人情報に該当する。第三者への提供には原則として本人の同意が必要だが、事業譲渡に伴う場合は例外規定がある。ただし、利用目的の通知は必要。
**三、表明保証。** 譲渡契約書に、中村側の表明保証条項を入れるべきだ。具体的には、未払い債務がないこと、係争中の訴訟の有無(佐々木への告訴が進行中であること)、行政処分歴の開示。これらを正直に開示した上で、藤原に判断させる。
「営業停止の処分歴とネット炎上の件は、隠すべきじゃない。」
「もちろん。隠して後から発覚したら、譲渡契約自体が問題になる。全部開示した上で、藤原が了承するなら、クリーンな取引になる。」
開示と決断
十二月十日。中村は藤原に、すべてを開示した。
五月の営業停止処分。七日間の営業停止と、その原因となった三つの違反。六月から八月のネット炎上。元スタッフによる虚偽の書き込みと、発信者情報開示請求、告訴の経緯。
藤原は黙って聞いていた。
「掲示板の書き込みはまだ残っているのか。」
「残っている。検索結果では五番目まで下がったが、消えてはいない。」
「告訴の件は。」
「受理されて捜査中。ただし、弁護士の見立てでは、起訴まで行くかどうかは不透明。」
藤原はしばらく考えた後、言った。
「処分歴もネット炎上も、事前に聞いていれば対処できる。むしろ、隠さずに話してくれたことで、あんたの人間性は信用できると判断した。条件は変えない。四百五十万で買う。」
契約書
十二月二十日。早川の事務所で、事業譲渡契約書の調印が行われた。
中村と藤原、双方の弁護士が同席した。契約書は十四ページ。早川と藤原側の弁護士が一条ずつ確認し、修正点を協議した。
最終的な契約の骨子は以下の通りだった。
譲渡価格:四百五十万円。支払い方法:契約時に二百万円、届出名義変更完了時に二百五十万円。
引き継ぎ期間:一月十五日から一月三十一日まで。この間、中村が藤原のスタッフに業務を引き継ぐ。
届出の切り替え:一月三十一日に中村が廃業届を提出。同日、藤原が新規届出を提出。
競業避止:譲渡日から一年間、東京都内での無店舗型性風俗特殊営業を行わない。
中村はペンを取り、最後のページに署名した。
引き継ぎの日々
一月十五日から、引き継ぎが始まった。
藤原が指名したスタッフの木村が、毎日事務所に来た。中村は受付業務、キャストとのコミュニケーション、ドライバーへの指示系統、ポータルサイトの管理、トラブル対応の基本方針を一つずつ教えた。
中村が最も時間をかけたのは、トラブル対応の引き継ぎだった。
「クレーマーの電話が来たら、まず相手の話を全部聞く。遮らない。聞き終わってから、事実確認をする。感情で返さない。」
「キャストから『辞めたい』と言われたら、理由を聞くだけでいい。引き留めない。ただし、報酬の未払いがないか確認して、清算してから送り出す。」
「警察から連絡が来たら、弁護士に電話する。自分で判断しない。早川先生の連絡先を渡しておく。」
木村はノートにすべて書き留めた。
さらとみくは、藤原のもとでも引き続き働くことを選んだ。藤原と面談し、報酬条件が維持されることを確認した上での判断だった。
山田も残った。「中村さんがいなくなるのは寂しいけど、この仕事自体は嫌いじゃない」と言った。
最後の営業日
一月三十一日。中村拓也にとって、デリヘル経営者としての最後の日だった。
午前中、所轄の警察署に行き、廃業届を提出した。窓口で受理印を押された書面を見たとき、中村の手は少し震えた。
午後、藤原が事務所に来た。鍵を渡した。ポータルサイトのログイン情報を渡した。受付用の携帯電話を渡した。
「一年間、ありがとうございました。」
藤原がそう言って頭を下げた。中村は少し驚いた。
「こちらこそ。キャストを──さらとみくを、よろしくお願いします。」
「任せてください。」
中村は事務所を出た。振り返らなかった。
一年間の収支
二月に入り、中村はこの事業の最終的な収支を計算した。
**収入。** 営業による年間売上:千二百六十五万円。事業譲渡代金:四百五十万円。合計:千七百十五万円。
**支出。** 初期投資(届出費用、備品、ポータル登録料など):約百五十万円。年間経費(家賃、ポータル掲載料、ドライバー人件費、通信費、弁護士費用、その他):約九百八十万円。合計:千百三十万円。
**最終利益:約五百八十五万円。**
十三カ月間の事業で、五百八十五万円。月あたり約四十五万円。
会社員の年収と比較すれば悪くない数字かもしれない。しかし、中村が投じた時間と精神的コストを考えれば、これが「割のいい仕事」だったとは言い切れなかった。
中村が最後にノートに書いたこと
二月十五日。中村は、一年間書き続けてきたノートの最後のページを開いた。
このノートには、開業初日の売上から、クレーマーの対応メモ、事故の処理記録、横領の発覚時の心境、営業停止中の反省、ネット炎上対応の手順、そして事業譲渡の交渉記録まで、すべてが記されていた。
中村は最後のページに、こう書いた。
「デリヘル経営のリアルとは何だったか。」
「それは、人間の欲望と法律の境界線の上で、毎日バランスを取り続ける仕事だった。」
「客の欲望。キャストの事情。スタッフの不正。警察の目。ネットの悪意。そのすべてと向き合いながら、合法の範囲で、一日一日を回していく。華やかさはない。ドラマチックでもない。ただ、地味で、泥臭くて、神経をすり減らす仕事だった。」
「この一年で学んだことを一つだけ挙げるなら──『すべてのトラブルには、対処法がある。ただし、対処法を知っているかどうかで、結果は天と地ほど違う。』」
「電話が鳴らない夜の孤独も、キャストが消えた朝の焦りも、クレーマーの怒声も、警察の立入調査も、ネットに書かれた嘘も。すべては、準備と知識と、逃げないという覚悟で乗り越えられた。乗り越えられなかったものは、一つもなかった。」
「ただし、乗り越えるたびに、少しずつ削られていった。体力も、気力も、人間関係も。この仕事を十年続けられるかと聞かれたら、正直に言って分からない。」
「だから、売った。一年間で築いたものを、四百五十万円で手放した。高いのか安いのか、今はまだ分からない。五年後に振り返ったとき、答えが出るのかもしれない。」
中村はペンを置いた。
ノートを閉じた。
窓の外は、二月の東京。冷たい空気が、少しだけ心地よかった。
デリヘル経営のリアル──トラブルの現場から。
全十回の連載は、これで終わりだ。
中村拓也という架空の人物が経験した一年間は、この業界で日常的に起きている出来事の集積に過ぎない。開業の苦労、人材の問題、クレーマー対応、事故処理、性的トラブル、横領、身バレ、行政処分、ネット炎上、そして撤退。
これらのすべてが、どこかの店で、今日も起きている。
この連載が、風俗業界で働く人、これから参入しようとしている人、あるいはこの業界に関心を持つすべての人にとって、何かの参考になれば幸いである。