三月七日。金曜日の午後三時。
中村拓也の携帯が鳴った。画面に表示されたのは「水沢あかり」──源氏名「りお」だった。
りおは一月に採用した二十三歳のキャストだ。ゆいが去り、れなが出勤を減らした穴を埋めるために面接した五人の中で、最も早く指名がついた子だった。昼間は都内の一般企業で事務職をしており、副業として週二回、退勤後の夜の時間帯に出勤していた。
中村が電話に出ると、りおの声は震えていた。
「中村さん、すみません。今日の出勤、キャンセルさせてください。」
「体調悪い?」
「……違うんです。あの、ちょっと話があって。電話じゃなくて、直接会えませんか。」
声の奥に、涙を堪えているような気配があった。
「バレました」
午後五時。事務所に来たりおの目は赤く腫れていた。
「中村さん、会社の人に、バレました。」
中村は椅子を引いてりおを座らせた。
「何がバレた? この仕事のこと?」
「はい。……会社の同じフロアの男の人が、お客さんとして来てたみたいなんです。」
りおの話はこうだった。
前日の木曜日、退勤後にいつも通り出勤し、二十一時の案件に向かった。ホテルの部屋は間接照明ひとつの薄暗い空間だった。りおはいつものように、仕事用の自分に切り替えた。この仕事を続けるために、りおは自分なりのルールを決めていた。接客中は客の顔をまっすぐ見ない。名前を覚えない。終わったら、すべて忘れる。日常と切り離すための、心の防壁だった。
その夜の客は、声が少し高くて、やけに話しかけてくる男だった。薄暗がりの中で、男がじっとこちらの顔を覗き込んでくることが何度かあったが、そういう客はたまにいる。りおは気に留めなかった。接客を終え、事務所に戻った。何も変わらない、いつも通りの一夜だった。
翌朝、出社してデスクに座ると、同じフロアの別チームにいる三十代の男性社員が近づいてきた。業務で直接やりとりすることは少なく、エレベーターや給湯室で顔を合わせれば会釈する程度の相手だった。
「水沢さん、昨日はお疲れ様。」
一瞬、意味がわからなかった。しかし、男の笑い方と目の色で、すべてを理解した。昨夜の客の声が,頭の中で重なった。
「……私のこと、言わないでくださいね。」
りおがそう言うと、男は曖昧に笑って自分の席に戻った。その後、一日中、男の視線を背中に感じていたという。
「中村さん、私、もうこの仕事できないかもしれません。あの人が誰かに言ったら、会社にいられなくなります。」
中村はりおの手の震えを見ながら、言葉を選んだ。
「まず落ち着こう。いくつか確認させてほしい。そのお客さん、うちの受付を通した案件か? りおの本名を知ってる可能性は?」
身バレの経路
中村はりおの話を整理しながら、身バレの経路を逆算した。
まず確認したのは、受付ノートだった。木曜夜の二十一時の案件。予約名は「タナカ」。電話番号を照合すると、過去に三回の利用歴があった。ただし、いずれも異なるキャストを指名している。りおへの指名は初めてだった。
つまり、この男は「りお」を指名したのではない。偶然、りおが案内されたのだ。
次に確認したのは、ポータルサイトのキャスト写真だ。中村は採用時にりおのパネル写真を撮影したが、業界の慣行に従い、目元にモザイクを入れ、加工を施していた。正面からの写真は使わず、斜め横からのショットを採用している。
「写真で気づかれた可能性は低いと思う。接客中に素顔を見られたか、声で分かったか、どっちかだろう。」
「……多分、声です。私、声が特徴的だって言われるので。あの人とは普段そんなに話さないけど、声は聞いたことがあるから──向こうも同じだったんだと思います。あと、あの人、最中にずっと顔を見てきてて、すごく嫌だったんです。普段から私、接客中はお客さんの顔を見ないようにしてるんです。見たら、人として覚えちゃうから。でもあの人は、こっちの顔をずっと確認してた。今思えば、あの時点で気づきてたんだと思います。」
中村は腕を組んだ。
身バレには、大きく分けて二つのパターンがある。一つは「在籍バレ」で、キャストのある店に在籍していること自体が知人に知られるケース。もう一つは「身バレ」で、本名や本業など、キャストの実生活の情報が客や第三者に知られるケースだ。
りおの場合は、その両方が同時に起きていた。客側がキャストの実生活を知っており、かつキャストの在籍を知った。最も厄介なパターンだ。
対策会議
中村はまず、弁護士の早川に電話した。
「相手が職場でその情報を流した場合、名誉毀損またはプライバシー侵害に該当する可能性があります。ただし、それは事後的な法的措置であって、情報が広まること自体を事前に止める法的手段は、現実的には限られます」
早川は続けた。
「現段階でできることは二つです。一つ目。相手に書面で通知すること。キャストの個人情報、すなわち風俗店への在籍情報を第三者に開示した場合、法的措置を取る旨を明記した内容証明郵便を送る。これは抑止力として一定の効果があります。」
「二つ目。キャストの側で、会社にいづらくなる前に自衛策を講じること。残念ながら、風俗業への従事。理由とした解雇は、就業規則の副業規定次第では正当化される場合もあります。法律で完全には守りきれない領域です。」
中村は電話を切った後、りおに二つの選択肢を提示した。
「一つ目。弁護士から内容証明を送ってもらう。費用は店で持つ。これで相手が口を噤む可能性はある。ただし、内容証明を受け取った相手が逆上するリスクもゼロじゃない。」
「二つ目。しばらく出勤を止めて様子を見る。相手が何もしなければ、一カ月後くらいに出勤を再開する。ただし、再開しても同じホテルエリアに案内されれば、また鉢合わせる可能性がある。」
りおは膝の上で手を握りしめていた。
「……内容証明、お願いします。それと、しばらくお休みさせてください。」
「分かった。出勤再開はりおのタイミングでいい。焦らなくていい。」
火曜日の朝
三月十一日。火曜日。
りおから電話が来た。今度は、泣いていた。
「中村さん、もうダメです。会社の女の人にも知られてます。昼休みに周りがひそひそ話してるんです。名指しではないけど、絶対私のことです。」
「内容証明は?」
「昨日届いたはずです。でも、その前にもう話してたんだと思います。」
中村は頭を抱えた。内容証明が届く前に、すでに情報が漏れていた。男はりおと接客した翌日から、おそらく同僚に話していたのだ。
「りお、今すぐ決めなくていいけど、今の会社をどうするか考えたほうがいい。続けるなら、正面からこの状況に対処する必要がある。離れるなら、早い方がいい。」
「……辞めます。もう会社には行けません。」
りおの声は平坦だった。泣き疲れた後の、諦めに近い静けさだった。
「辞めるなら、退職届を出す前に、相手のやったことの記録を残しておいて。LINEのやりとりとか、ひそひそ話の日時と内容のメモ。後で法的措置を取るかどうかは別として、証拠は消えたら戻らないから。」
もう一つの身バレ
りおの問題が収束しないまま、三月十四日に別の事態が起きた。
みくから連絡が入った。
「中村さん、私の写真、Twitterに載ってるんです。」
中村がみくの言うアカウントを確認すると、匿名のアカウントが、ポータルサイトに掲載していたみくのキャスト写真を無断転載し、「この子、〇〇のデリヘルで働いてるらしい」というコメントを付けて投稿していた。写真はモザイク加工済みのものだったが、体型やヘアスタイルの特徴から、知人が見れば分かる程度の情報量だった。
「これ、消せないんですか?」
「消せる。ただ、手順がいる。」
中村はこの手の問題について、前の店で働いていた時に一度だけ経験したことがあった。当時の店長がポータルサイトの運営に連絡し、転載の削除要請を出したケースだ。ただし、SNSへの投稿はポータルサイトの管轄外であり、SNS運営への通報が必要になる。
中村はまずポータルサイトの営業担当に連絡を取り、写真の無断転載についてSNS運営への削除要請の支援を依頼した。同時に、みくのパネル写真をすべて差し替える手配を始めた。
SNS運営への通報から削除までは、三日かかった。しかし、その間にスクリーンショットが別のアカウントに拡散されていた。
「中村さん、もう地元の友達にも見られたかもしれない。怖いです。」
みくは震えていた。みくは埼玉の実家から通っている二十歳の大学生だ。親には「居酒屋のバイト」と伝えている。
経営者としてのジレンマ
三月中旬。中村の事務所にはキャストが四人在籍していた。りおは休止中。みくは出勤を続けていたが、写真の拡散が気になって接客に集中できない日が増えていた。
三月の売上は急激に落ちていた。二月が百五十一万円だったのに対し、三月は第二週の時点で五十三万円。このペースでは百二十万円に届かない。
中村が直面していたのは、この業界特有のジレンマだった。
キャストの写真をポータルサイトに掲載しなければ、客は来ない。写真がなければ、客はキャストを選べない。選べなければ、電話は鳴らない。しかし、写真を掲載すればするほど、身バレのリスクは高まる。加工しても、体型や雰囲気で特定される可能性は残る。
さらに、この業界では「顔出し」が集客力に直結する。モザイクを入れれば安全性は上がるが、反応率は落ちる。顔を出せば入電は増えるが、身バレのリスクは跳ね上がる。安全と売上はトレードオフの関係にあり、経営者はその天秤の上で判断を迫られる。
飲食店で働くスタッフが、その店で働いていることを知られても、通常は問題にならない。しかし、デリヘルのキャストにとって、在籍が周囲に知られることは、社会生活そのものを脅かす爆弾になり得る。経営者は、その爆弾を抱えた人間に売上を依存しているのだ。
中村が導入した五つの対策
りおとみくの問題を経て、中村は身バレ対策を体系的に見直した。
**一つ目、パネル写真の撮影基準を厳格化した。** 正面写真は原則禁止。顔の露出は口元まで。背景に場所が特定できる要素を入れない。体型が分かるポーズを避け、衣装もキャストの日常着とは異なるものを用意した。
**二つ目、身バレリスクのヒアリングシートを面接時に導入した。** 本業の有無、住んでいるエリア、身近な人間に知られた場合の影響度合い。これらを事前に把握し、リスクの高いキャストには勤務エリアの調整──自宅や職場の最寄り駅から離れたエリアへの限定案内──を提案するようにした。
**三つ目、写真の二次利用対策として、透かし情報の埋め込みを始めた。** ポータルサイトに掲載する写真に、肉眼では分かりにくい小さな店名やIDを画像に重ねた。転載された場合に出所を特定しやすくするためだ。
**四つ目、身バレ発生時の初動マニュアルを作った。** キャストが身バレの報告をしてきた場合のステップ。写真の差し替え、源氏名の変更、出勤の停止判断、弁護士への連絡。中村が不在でも山田が一次対応できるよう、手順書を事務所に貼った。
**五つ目、定期的に自店のキャスト写真がSNSで無断転載されていないかをチェックする作業を、週一回のルーティンに組み込んだ。** Google画像検索とSNSの検索機能を使って、流出がないか監視する。地味な作業だが、みくのケースで学んだのは、早期発見ができれば拡散の規模を最小限に抑えられるということだった。
りおの選択
三月二十一日。りおが事務所に来た。
前回会った時より表情は落ち着いていたが、目の奥に疲労が溜まっていた。
「会社は今月末で辞めることにしました。退職届、もう出しました。」
「そうか。──それで、うちのことはどうする?」
「続けたいです。ただ、源氏名を変えたいです。写真も全部差し替えてほしいんです。『りお』として残ってる痕跡を、全部消したい。」
「分かった。新しい名前、何にする?」
「『さら』でお願いします。」
中村はポータルサイトのキャストページからりおのプロフィールを削除し、新しい源氏名「さら」として再登録した。写真は全て新規に撮り直した。前回よりさらに加工を強めに施し、体型の特徴も分かりにくいアングルを選んだ。
りおは──いや、さらは、四月第一週から出勤を再開する予定だった。
三月の数字
三月三十一日。中村は三月の帳簿を締めた。
総売上:百十七万円。りおの離脱とみくの稼働低下が直撃した月だった。固定費は六十九万円。弁護士費用(内容証明作成・相談料)に四万円。利益は約四十四万円。
十二月の百七十万超から見れば大幅な減少だが、田口の横領がなくなり、経費構造がシンプルになった分、利益率自体は改善していた。
しかし、数字に表れない損失があった。りおが失った本業の仕事。みくの精神的な負担。そして、「この店で働いて大丈夫なのか」というキャスト全員の不安。身バレは、当事者だけでなく、店全体の士気に影響する。
中村はノートに書いた。
「キャストの安全は、経営の基盤。基盤が揺らげば、何を積み上げても崩れる。」
深夜、事務所で一人、中村は携帯の画面を眺めていた。
この半年で、中村は気づき始めていた。デリヘル経営とは、人の秘密の上に成り立つ事業だということに。キャストは家族に内緒で働き、客は妻に内緒で電話をかけ、経営者はその秘密を預かって商売をしている。秘密が守られている間は、全員が利益を得る。しかし、一つの秘密が漏れた瞬間、誰かの人生が壊れる。
中村が預かっているのは、売上でも利益でもなく、人の秘密そのものだった。
ノートの最後のページに、中村は書き加えた。
「信頼するな、確認しろ──ではもう足りない。守れ。」
四月のノートを開く。さらの復帰がある。新しいキャストの面接も二件入っている。この店で働く人間の秘密を、一つも漏らさない仕組みを作る。それが、この月の自分への課題だった。