六月十四日。土曜日。午後三時。
中村拓也の携帯が鳴った。ドライバーの山田からだった。
「拓也さん、ちょっとまずいことになってます。『夜蝶の掲示板』、見ました?」
「いや、見てない。何があった?」
「うちの店名で書き込みがあって──内容がかなりひどいです。今すぐ見てもらったほうがいい。」
中村はノートパソコンを開き、「夜蝶の掲示板」にアクセスした。風俗店の口コミが匿名で投稿される掲示板サイトで、業界関係者なら誰でも知っている。そこに、中村の店の名前が入ったスレッドが立っていた。
タイトルは「【暴露】N◯Pの裏側、全部書く」。
中村の背筋が冷えた。
書き込まれた五つの嘘
スレッドの最初の投稿は、前日の深夜に書き込まれていた。投稿者のハンドルネームは「元スタッフ」。
投稿は長文で、箇条書きになっていた。中村はそれを一行ずつ読んだ。
**一、「この店は本番を暗黙の了解でやらせている。キャストに断る権利はない。」**
嘘だ。中村は本番行為を一切認めていない。第五回で本番強要の被害があった後、キャストへの安全教育を強化し、接客前の確認事項にも明記した。
**二、「給料の未払いが常態化している。辞めようとするキャストには脅して払わない。」**
嘘だ。中村は報酬を即日現金で支払っている。業務委託契約書にも報酬条件を明記し、支払い遅延は一度もない。
**三、「経営者は暴力団と繋がっている。売上の一部を上納している。」**
完全な虚偽だ。中村は反社会的勢力との関係を一切持っていない。
**四、「衛生管理がめちゃくちゃ。検査なんて一度もやっていない。」**
嘘だ。中村は定期検査の受診をキャストに推奨し、費用の半額を負担している。
**五、「先月、風営法違反で営業停止になった。処分を受けたのに反省もなく営業を再開している。」**
これだけは、半分事実だった。営業停止処分を受けたことは事実だ。しかし、「反省もなく営業を再開」という表現は悪意に満ちている。処分期間を全うし、是正措置を実施した上での再開だった。
中村はスレッドをスクロールした。投稿から十五時間が経過していた。返信は二十三件。そのうち大半が「やっぱりな」「こういう店あるよな」という追随コメントだった。事実確認をしているコメントは一つもなかった。
最初の被害
口コミの影響は、その日のうちに現れた。
午後五時、常連の一人から電話が入った。三十代後半の会社員で、月に二回ほど利用していた男だった。
「中村さん、ちょっと聞きたいんだけど──掲示板に書いてあること、あれ本当?」
「全部嘘です。事実無根の書き込みです。」
「そう。まあ、俺は信じるけどさ。ただ、あれを見て引く人は多いと思うよ。」
その日の受電は、前週の土曜日に比べて四割減った。通常なら十二件前後の予約が入る土曜日に、七件しかなかった。中村は偶然の可能性も考えたが、翌日の日曜日はさらに減って五件だった。平均の半分以下だ。
月曜日、ポータルサイトのアクセス解析を見ると、店舗ページの閲覧数自体はむしろ増えていた。掲示板からの流入で「野次馬」が増え、実際に利用する客は減ったのだ。
さらに深刻な問題があった。Googleで店名を検索すると、掲示板のスレッドが検索結果の三番目に表示されていた。店のポータルサイトのページよりも上だった。
「削除は難しい」
中村はまず、掲示板の運営に削除依頼を出した。
「夜蝶の掲示板」には、問い合わせフォームが設置されていた。中村は「事実無根の誹謗中傷であり、営業妨害に該当する投稿の削除を求める」という趣旨の文面を送信した。
三日後、返信が来た。
「お問い合わせいただきありがとうございます。当サイトは利用者による自由な意見交換の場を提供しており、投稿内容の真偽について当サイトが判断する立場にはございません。明確な法令違反が確認できない限り、個別の投稿の削除には応じておりません。」
テンプレートのような返信だった。中村はこの文面を読んで、掲示板の運営が削除に応じる気がないことを理解した。
弁護士の早川に相談すると、こう言われた。
「匿名掲示板への削除依頼は、運営が応じないケースが大半です。法的に削除を求めるなら、裁判所に仮処分の申立てをする方法がある。ただし、時間と費用がかかる。仮処分の申立てから決定まで早くて二週間、費用は弁護士費用を含めて三十万から五十万。そして、仮処分が出ても、運営がすぐに対応するとは限らない。」
「三十万から五十万──」
「さらに言えば、投稿を削除しても、スクリーンショットが別のサイトに転載されている可能性がある。ネットの情報は完全には消せない。削除はゴールではなく、あくまで対策の一つだと思ってください。」
発信者情報開示請求
中村は早川と相談し、二段階の方針を立てた。
**第一段階。** 掲示板運営に対して、投稿者のIPアドレスの開示を求める「発信者情報開示請求」を行う。プロバイダ責任制限法に基づく手続きで、投稿によって権利を侵害されたことを示す必要がある。
**第二段階。** IPアドレスが開示されたら、そのIPアドレスを管理するインターネットプロバイダに対して、契約者情報の開示を求める。これで投稿者の身元を特定し、民事の損害賠償請求または刑事告訴につなげる。
「ただし」と早川は付け加えた。「プロバイダのアクセスログの保存期間は通常三カ月から六カ月です。投稿から時間が経つと、ログが消去されて特定できなくなる。急ぐ必要があります。」
六月二十日。早川が裁判所に発信者情報開示の仮処分を申し立てた。
中村の手元には、早川から渡された書類のコピーがあった。申立書には、投稿内容が名誉毀損および信用毀損に該当すること、投稿内容が事実に反すること、営業上の損害が発生していることが記載されていた。証拠として、投稿のスクリーンショット、中村の店の業務委託契約書のコピー、報酬支払い記録、性病検査費用の領収書、営業届出書の控えを添付した。
炎上の拡大
法的手続きが進む間も、ネット上の被害は広がり続けた。
六月下旬、Twitterに掲示板の投稿をスクリーンショットで貼り付けたアカウントが現れた。「風俗業界の闇」というハッシュタグをつけて拡散していた。リツイートは三日で二百件を超えた。
七月に入ると、まとめサイトが掲示板のスレッドをまとめ記事として公開した。タイトルは「元スタッフが暴露! デリヘルの裏側がヤバすぎる件」。記事にはまとめサイト特有の煽り文が加えられ、元の投稿よりも過激な印象を与える構成になっていた。
中村はGoogleで自分の店名を検索した。検索結果の一ページ目に、掲示板のスレッド、Twitterの投稿、まとめサイトの記事が並んでいた。店のポータルサイトのページは六番目に押し下げられていた。
さらに、Googleの検索窓に店名を入力すると、サジェスト(検索候補)に「本番」「暴力団」「未払い」という単語が表示されるようになっていた。いわゆる「サジェスト汚染」だ。
「これを見た客が予約するわけがない。」
中村は呟いた。六月の最終週の売上は、五月の週次平均と比較して六割に落ちていた。
犯人の特定
七月八日。早川から連絡があった。
「発信者情報開示の仮処分が認められた。掲示板運営からIPアドレスが開示された。そして、プロバイダへの照会も並行して進めていた結果──投稿者が特定できた。」
「誰だ?」
「横領で辞めさせた元スタッフの佐々木だ。」
中村は椅子の背にもたれた。
佐々木圭介。第六回で売上金約四十万円を横領し、中村が解雇した元受付スタッフだ。横領発覚時、中村は刑事告訴ではなく、弁済と退職で決着をつけた。佐々木は横領金を分割で返済する約束をしたが、返済は三回で止まっていた。
「動機は逆恨みだろうな。」
「おそらく。横領で解雇されたことへの報復として、虚偽の書き込みを行った可能性が高い。」
「どうする?」
「二つの選択肢がある。一つは民事の損害賠償請求。営業損害の立証ができれば、売上の減少分の一部を請求できる。もう一つは刑事告訴。名誉毀損罪、信用毀損罪、偽計業務妨害罪のいずれかで告訴状を出す。あるいは両方やる。」
告訴と、その限界
中村は両方を選んだ。
七月十五日、早川を通じて所轄の警察署に告訴状を提出した。罪名は偽計業務妨害罪。「虚偽の事実を流布し、業務を妨害した」という構成だ。
同時に、民事の損害賠償請求の準備も始めた。六月と七月の売上データ、前年同月比のデータ、ポータルサイトのアクセス解析データを証拠として整理した。
しかし、早川は現実的な見通しも伝えた。
「刑事については、警察が積極的に動くかどうかは分からない。ネット上の名誉毀損事件は件数が多く、風俗業界が被害者のケースは優先度が低くなる傾向がある。民事の損害賠償も、佐々木に支払い能力があるかどうかが問題だ。横領金の返済すら滞っている人間に、損害賠償を支払う資力があるとは考えにくい。」
「つまり、法的に勝っても、実質的には何も取れない可能性があるってことか。」
「その可能性はある。しかし、法的に勝つこと自体に意味がある。判決や処分の結果があれば、それを根拠に掲示板やまとめサイトへの削除要請が通りやすくなる。」
もう一つの戦場
法的手続きと並行して、中村はネット上の被害を直接的に抑えるための対策に動いた。
まず、まとめサイトに対して削除申請を行った。プロバイダ責任制限法に基づく「送信防止措置依頼書」を作成し、まとめサイトの運営元に送付した。サイトの運営者情報は「特定商取引法に基づく表示」のページから確認できた。
まとめサイトからの返答は一週間後。「該当記事を削除しました」。掲示板本体よりもあっさりと対応された。まとめサイトは独自コンテンツではなく転載であるため、法的リスクを避ける傾向がある。
次に、Googleに対してサジェストの削除申請を行った。Googleのヘルプページにある「法律に基づく削除リクエスト」のフォームから、名誉毀損に該当するサジェストの表示停止を求めた。
これには一カ月以上かかった。八月に入ってようやく、「本番」「暴力団」のサジェストが表示されなくなった。ただし、「未払い」はしばらく残った。
逆SEO
中村が最も時間をかけたのは、「逆SEO」と呼ばれる対策だった。
検索結果から誹謗中傷の記事を消すことが難しいなら、自分に有利な情報を検索結果の上位に押し上げて、中傷記事を押し下げる。これが逆SEOの基本戦略だ。
中村は三つのことを実行した。
**一、ポータルサイトのプロフィールを充実させた。** 店舗紹介文を丁寧に書き直し、コンセプト、安全対策、料金体系を明確に記載した。写真も更新した。ポータルサイトはドメインの権威性が高いため、検索順位が上がりやすい。
**二、Googleビジネスプロフィールを開設した。** 正確な事業情報を登録し、「デリバリーヘルス」のカテゴリで店舗情報を表示させた。Googleの公式プロフィールは検索結果の上位に表示されるため、ネガティブな情報を押し下げる効果がある。
**三、自社の情報発信を始めた。** Noteにアカウントを開設し、風俗業界の安全対策やキャストの労働環境に関する記事を投稿した。月に二回、千五百文字程度の記事を書いた。内容は店舗の宣伝ではなく、業界全体の課題と取り組みについてだった。
中村はSEOの専門家ではない。しかし、独学で調べたことを一つずつ実行した。検索結果の一ページ目(上位十件)に表示される情報のうち、自分がコントロールできるページを増やす。地道な作業だった。
八月の変化
八月三十一日。中村はGoogleで店名を検索した。
検索結果の一ページ目の構成が変わっていた。
一番目:ポータルサイトの店舗ページ。二番目:Googleビジネスプロフィール。三番目:Noteの記事。四番目:別のポータルサイトの店舗ページ。五番目:掲示板のスレッド。
掲示板のスレッドは三番目から五番目に下がっていた。まとめサイトの記事は削除済みのため、検索結果から消えていた。サジェストの「本番」「暴力団」も表示されなくなっていた。
完全に消えたわけではない。掲示板のスレッドは依然として検索結果に残っている。しかし、五番目と三番目では、クリックされる確率が大きく異なる。検索結果の一番目のクリック率が約三十パーセントなのに対し、五番目は約五パーセントだ。
八月の売上は百三十五万円。六月の九十二万円、七月の百十万円から徐々に回復していた。営業停止の影響を含めた五月の九十八万円を底として、右肩上がりの回復曲線だった。
中村がまとめた「ネット炎上対応マニュアル」
中村はこの経験を通じて、一枚の対応マニュアルを作成した。A4用紙二枚に、やるべきことと、やってはいけないことを書いた。
**やるべきこと。**
**即座にスクリーンショットを保存する。** 投稿が削除される前に、URL、投稿日時、投稿者名、投稿内容のすべてをスクリーンショットで記録する。法的手続きの証拠として必須。ウェブ魚拓サービスも併用する。
**弁護士に相談する。** 自力で対応しようとしない。プロバイダ責任制限法、発信者情報開示請求、仮処分申立てなど、法的手続きは専門家に任せる。
**ログの保存期間を意識する。** プロバイダのアクセスログは三カ月から六カ月で消去される。法的手続きを取るなら、投稿から二カ月以内に弁護士に依頼する。
**削除できるものから削除する。** まとめサイト、SNSの転載、キャッシュなど、本体の掲示板より削除に応じやすいものから対処する。
**逆SEOで検索結果を管理する。** 検索結果の一ページ目に自分がコントロールできるページを増やす。ポータルサイト、Googleビジネスプロフィール、自社の情報発信。
**やってはいけないこと。**
**掲示板に反論を書き込まない。** 匿名掲示板で経営者が反論しても、火に油を注ぐだけだ。「必死だな」と嘲笑され、スレッドが活性化して検索順位が上がる。
**感情的なSNS投稿をしない。** 怒りに任せた投稿は、さらなる炎上を招く。発信する場合は、事実のみを冷静に記述する。
**「元スタッフ」に直接連絡しない。** 投稿者が特定できても、直接の接触は避ける。威圧と受け取られれば、脅迫として逆に訴えられる可能性がある。
**業者に丸投げしない。** 「口コミ対策」を謳う業者の中には、サクラの好意的な投稿を大量に書き込む手法を取るところがある。これが発覚すれば、元の炎上以上の信用毀損になる。
九月のノート
九月一日。中村は事務所のデスクで、九月の計画を立てていた。
開業から十カ月。集客、人材、クレーマー、事故、性的トラブル、横領、身バレ、行政処分。反映ネット炎上。ありとあらゆる種類のトラブルを経験した十カ月だった。
中村はノートの新しいページを開き、この十カ月で学んだことを一行で書いた。
「デリヘル経営には、目に見える敵と、目に見えない敵がいる。」
目に見える敵──クレーマー、警察、不正を働くスタッフ。これらは、対面で対処できる。相手の顔が見え、言葉を交わし、解決策を交渉できる。
目に見えない敵──匿名の書き込み、拡散されるスクリーンショット、検索結果に残り続けるネガティブ情報。これらは、対面では対処できない。相手の顔は見えず、言葉は一方的で、消そうとすればするほど広がることがある。
そして中村が気づいたのは、目に見えない敵のほうが、目に見える敵よりも、はるかに長く、深く、経営を蝕むということだった。
クレーマーの電話は切れば終わる。警察の調査は反映すれば終わる。しかし、ネットに書かれた嘘は、何年経っても検索結果に残る。消えたと思っても、どこかにキャッシュが残っている。誰かがスクリーンショットを保存している。
中村は窓の外を見た。九月の東京。まだ暑い。
六月に九十二万円まで落ちた売上は、少しずつ戻りつつある。逆SEOの効果も出始めている。佐々木への告訴は受理され、捜査が進んでいるという連絡もあった。
しかし、掲示板のスレッドは今も残っている。そしてこれからも、いつ誰が何を書くか分からない。それがネットという戦場だ。
中村はノートに書いた。
「戦いは終わらない。終わらないなら、戦い方を覚えるしかない。」
九月のノートに、十月の事業計画を書き始めた。秋は風俗業界の繁忙期だ。ここで取り返す。そのために、今できることをすべてやる。