四月十日。木曜日。午前六時五十二分。
中村拓也は事務所のソファで寝落ちしていた。前夜の最終案件が午前三時に終わり、片づけをしているうちに意識が落ちた。毛布もかけずに横になったまま、携帯のアラームも設定し忘れていた。
目を覚ましたのは、ドアを叩く音だった。
ノックではない。拳で、繰り返し、強く叩いている。
「警察です。開けてください。」
中村は一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。体を起こし、事務所の蛍光灯をつけた。時計を見た。六時五十二分。窓の外はまだ薄暗い。
「中村拓也さんですね。警視庁生活安全課です。風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律に基づく立入調査です。ドアを開けてください。」
中村の頭が一気に冷えた。
ドアの向こうに立っていた人間
ドアを開けると、スーツ姿の男が三人立っていた。先頭の男が警察手帳を開いた。
「警視庁生活安全課の小林です。こちらは同じく田中と鈴木。届出済みの無店舗型性風俗特殊営業に関する立入調査を実施します。」
中村は黙って頷いた。
立入調査と聞いて、最初に頭に浮かんだのは「ガサ入れ」という言葉だった。だが、正確には「ガサ入れ」は捜索差押令状に基づく強制捜査を指す。今回は風営法第三十七条に基づく行政警察権限による立入調査であり、令状は不要だ。しかし、正当な理由なく拒否すれば、罰則の対象になる。実質的に、断る選択肢はない。
小林と名乗った警察官が事務所の中を見回した。六畳ほどの空間に、デスクが一つ、パイプ椅子が三脚、壁際にスチール棚.棚にはファイルが並び、デスクの上には受付ノートとビジネスフォンが置かれている。
「営業に関する帳簿類を見せてください。従業者名簿、届出書の控え、それから接客に関する記録があればそれも。」
三時間の調査
中村はスチール棚からファイルを取り出した。
風俗営業の届出書の控え。キャストとの業務委託契約書。従業者名簿。身分確認書類のコピー。受付ノート。中村が几帳面に整理していた書類の束だ。
小林が一枚ずつページをめくっていく。もう一人の田中がデスクの引き出しを開けて中を確認し、三人目の鈴木が事務所内の写真を撮影していた。
中村は椅子に座り、何も言わずに調査を見守った。前の職場で、先輩スタッフから言われたことを思い出していた。「立入調査が来たら、余計なことは喋るな。聞かれたことだけ答えろ。嘘だけはつくな。」
四十分ほど経ったとき、小林がファイルの一枚を抜き出した。
「この従業者名簿ですが、水沢あかりさん──登録日が一月八日。年齢確認書類のコピーが添付されていますが、これは運転免許証ですか。」
「はい。」
「確認しますが、本人の生年月日から計算して、採用時点で十八歳以上であることは確認されていますか。」
「はい。免許証の生年月日で確認しています。」
小林は頷いて、ノートにメモを取った。
指摘された三つの問題
立入調査は三時間に及んだ。午前十時を過ぎた頃、小林が調査結果の概要を口頭で伝えた。
「中村さん、今回の調査で、いくつかの問題点が確認されました。」
小林がノートを見ながら、三つの指摘事項を読み上げた。
**一つ目。届出事項の変更届出義務違反。** 中村が開業時に届け出た営業所の電話番号が、その後変更されていたが、変更届が提出されていなかった。中村は十一月に事務所のビジネスフォンを買い替えた際に回線番号が変わったが、変更届が必要だという認識がなかった。風営法第二十七条は、届出事項に変更があった場合、十日以内に届け出ることを義務づけている。
**二つ目。従業者名簿の記載不備。** キャストの従業者名簿に、本籍地の都道府県名が記載されていなかった。風営法施行規則が求める従業者名簿の記載事項には、氏名、住所に加えて本籍地の都道府県名が含まれる。中村は運転免許証のコピーを保管していたが、名簿の書式にその欄を設けていなかった。
**三つ目。営業時間外の営業。** 受付ノートの記録から、午前零時を超えて接客が行われていたことが確認された。風営法上、届出制の無店舗型性風俗特殊営業には営業時間の制限はないが、東京都の条例では午前零時から日の出時までの間、客に接する業務を行わせることが制限される地域がある。中村の店の届出住所がその制限地域に該当していた。
「条例の営業時間制限については、正直に言うと把握していませんでした。」
中村がそう答えると、小林は表情を変えずに言った。
「風俗営業に関する規制は、法律だけでなく都道府県の条例も含めて遵守義務があります。知らなかったでは済まされません。」
「行政処分が出ます」
その日の午後、中村は弁護士の早川に電話した。
「三つの指摘を受けた。変更届の不提出、名簿の記載不備、条例の営業時間違反。この三つが重なると、どうなる?」
早川の声は落ち着いていたが、内容は厳しかった。
「三つの違反が同時に指摘されている場合、公安委員会から行政処分が出る可能性が高い。処分の内容は指示処分か営業停止のどちらかだが、営業時間違反の程度次第では営業停止になる。」
「営業停止って、どのくらいの期間?」
「風営法第三十一条に基づく営業停止命令の場合、最長で八カ月.ただし、実際には違反の悪質性と是正状況に応じて期間が決まる。初回の違反で、悪質性が低く、すでに是正措置を取っている場合は、短くて数日、通常は一週間から一カ月程度。ただし──」
「ただし?」
「処分が出るまでの間、通常営業は可能です。しかし、処分が出た時点で即座に営業を停止しなければならない。処分に違反して営業を続けた場合は、刑事罰の対象になります。」
中村は携帯を握りしめた。
「今すぐやるべきことは何だ?」
「まず、変更届を即日提出すること。名簿の不備を訂正すること。営業時間を条例に適合させること。できることは全て是正して、行政処分の審理の際に有利に働くようにしてください。今日中に動いてください。」
是正の四十八時間
中村は電話を切ると、すぐに動き始めた。
まず、所轄の警察署に向かった。届出事項の変更届の用紙を受け取り、その場で記入して提出した。窓口の担当者は「本来は変更から十日以内ですが」と一言添えたが、受理はされた。
事務所に戻り、従業者名簿の書式を作り直した。全キャストに連絡を取り、本籍地の都道府県名を確認した。その日のうちに名簿を更新し、ファイルに綴じ直した。
最も対応が難しかったのは、営業時間の問題だった。
中村の店の売上のうち、午前零時以降の案件が占める割合を計算した。受付ノートを遡って三カ月分を集計すると、深夜零時以降の案件は全体の約二割を占めていた。月の売上が百五十万円だとすれば、三十万円分だ。この三十万円を捨てなければならない。
中村はキャストとドライバーに連絡した。
「今日から、午前零時以降の新規受付は一切しない。最終案件の受付は午後十一時まで。例外はない。」
山田が聞いた。
「午前零時を超える案件って結構あるけど、大丈夫なんですか? 売上かなり減りますよ。」
「減る。でも、営業停止になったら全部ゼロだ。」
処分通知書
四月二十五日。中村の元に、東京都公安委員会からの書面が届いた。
封筒を開ける手が震えた。
「風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律第三十一条の規定に基づき、下記のとおり営業停止を命ずる。」
処分内容:営業停止七日間。
期間:五月一日から五月七日まで。
中村は書面を三回読み直した。七日間。一カ月でも二カ月でもなく、七日間。早川に電話すると、「是正措置を速やかに実施したことが評価されたのだろう」という見解だった。
しかし、七日間の営業停止は、七日分の売上がゼロになるだけではない。
営業停止がもたらしたもの
五月一日。中村は事務所の電話を止め、ポータルサイトのプロフィールを非公開にした。
キャストには事前に説明していた。
「五月一日から七日まで、営業停止処分を受けた。法的な処分だから、この間は一切営業できない。八日に再開する。」
さら(元・りお)は黙って頷いた。みくは不安そうな顔をしていた。四月に新しく採用した二十一歳のキャスト「あい」は、「他の店で働いてもいいですか?」と聞いた。
「構わない。ただし、うちに戻る気があるなら、うちの名前を出さないでくれ。」
あいは曖昧に笑って帰っていった。中村は、あいがそのまま戻らない可能性を覚悟した。
営業停止の七日間で失ったものを、中村は後にノートにまとめている。
**売上の損失。** 七日間の売上見込みは約三十五万円。これがゼロになった。
**キャストの離脱. ** 予想通り、あいは戻ってこなかった。停止期間中に別の店に移り、そのまま在籍した。採用面接から教育にかけた時間と労力が消えた。
**ポータルサイトの順位低下。** 七日間の非公開により、掲載順位のスコアがリセットされた。再公開後、表示順位が以前の三十位前後から五十位台に落ちた。元の順位に戻るまでに三週間かかった。
**信用の毀損。** 営業停止期間中に常連客から「どうしたんですか」という連絡が何件か入った。中村は「設備点検のため」と答えたが、鋭い客は事情を察していただろう。
五月八日の再出発
五月八日の午前十時。中村は事務所の電話を復旧させ、ポータルサイトのプロフィールを再公開した。
電話の前に座った瞬間、八カ月前の開業初日を思い出した。あの日も、同じ椅子に座り、電話が鳴るのを待っていた。そしてあの日と同じように、午前中は一本も鳴らなかった。
午後二時に最初の入電があった。新規の客だった。フリー(指名なし)の六十分コース。さらに案内した。
その日の売上は三万六千円。八カ月前の開業初日が一万八千円だったことを思えば、倍にはなっている。しかし、停止前の日次平均が五万円を超えていたことを考えれば、回復には程遠い数字だった。
中村が作ったチェックリスト
営業停止を経て、中村は二度と同じ過ちを繰り返さないために、一枚のチェックリストを作成した。事務所の壁に貼り、毎月一日に確認するルールにした。
**届出内容の確認。** 届出書の控えと現状を照合する。電話番号、営業所住所、届出者の住所に変更がないか。変更があれば十日以内に届け出る。
**従業者名簿の確認。** 全キャスト・全スタッフの名簿が最新か。必要な記載事項(氏名、住所、本籍地都道府県名、生年月日、採用日)に漏れがないか。年齢確認書類のコピーが添付されているか。
**営業時間の遵守。** 受付ノートを確認し、条例で制限されている時間帯の案件がないか。最終受付時刻が守られているか。
**広告表現の確認。** ポータルサイトや自社サイトの記載が法令・条例に違反していないか。禁止されている表現や誤解を招く記載がないか。
**契約書類の確認。** キャストとの業務委託契約書が全員分あるか。契約内容が実態と乖離していないか。
中村はこのチェックリストを「月初チェックリスト」と呼んだ。一枚の紙に書かれた五項目だが、この五項目を毎月確認していれば、少なくとも今回と同じ種類の違反は防げるはずだった。
五月の数字
五月三十一日。中村は五月の帳簿を締めた。
総売上:九十八万円。営業停止の七日間と、再開後の順位低下が直撃した月だった。固定費は六十五万円。弁護士費用(行政処分への対応相談)に六万円。利益は約二十七万円。
十二月の百七十万超、一月の百五十万超から見れば大幅な下落だ。しかし、赤字ではない。事務所の家賃、ポータルの掲載料、ドライバーの人件費。これらを支払ってなお、二十七万円が残った。
中村はノートに書いた。
「法律を知らないことは、言い訳にならない。知らないなら、知りに行け。」
深夜、事務所で一人、中村は早川に勧められて購入した風営法の解説書を読んでいた。
開業から八カ月。中村は最初の一カ月で集客を学び、キャストの離脱に翻弄され、クレーマーと向き合い、事故処理に走り、本番強要の問題に直面し、横領を発見し、身バレの問題を処理してきた。そしてこの月、法律という、もう一つの壁にぶつかった。
デリヘル経営は、法の網の目の上に成り立っている。風営法、都道府県条例、労働法、個人情報保護法。これらを一つでも踏み外せば、営業が止まる。そして営業が止まれば、売上だけでなく、キャストもドライバーも、積み上げてきた信用も、すべてが崩れる。
中村がこの八カ月で痛感してきたのは、デリヘル経営とは「合法と違法の境界線の上を歩き続ける仕事」だということだった。その境界線がどこにあるのかを、自分自身で把握していなければ、いつか必ず足を踏み外す。
チェックリストを壁に貼った。解説書に付箋を貼った.弁護士の連絡先を携帯のホーム画面に置いた。
それでも、知らない法律はまだあるかもしれない。見落としている条例があるかもしれない。完璧な準備など、この業界には存在しない。
中村は解説書を閉じ、ノートの最後に書いた。
「守りを固めろ。攻めるのは、守った後だ。」
六月のノートを開く。順位の回復を待ちながら、一日一日を合法に、丁寧に積み上げていく。そのほかに道はなかった。