本番強要の通報 ─ キャストを守れなかった日

金曜の夜、キャストのゆいから震える声で電話が入った。「本番を強要されました」──。客の犯罪行為にどう対応し、何を変えたのか。経営者・中村拓也が突きつけられた、キャストの安全を守る責任の重さ。

一月十七日。金曜日の午後十時十二分。

中村拓也の携帯が鳴った。画面に表示されたのは「ゆい」の文字。入店三カ月目の二十二歳。おっとりした性格で、客からの評判も良い。ただ、自分からこの時間に電話をかけてくることは滅多にない。

「中村さん……すみません、ちょっと……」

声が震えていた。

「どうした。」

「さっきのお客さんに、本番を……強要されました。」

中村は椅子から立ち上がった。

何が起きたのか

ゆいが語った経緯は、こうだった。

午後八時半、ゆいは新規客の元へ向かった。場所は上野のビジネスホテル。九十分コース。電話口での印象は穏やかで、年齢は四十代前半。特段の不安要素はなかった。

接客が始まって三十分ほどは問題なかった。しかし、途中から客の態度が変わった。

「本番、いいだろう。別に金は払うから」

ゆいは断った。デリヘルは本番行為を提供しないサービスであり、風営法上も性交渉は禁止されている。入店時の研修でそう教わっていたし、ゆい自身もその線引きは理解していた。

「無理です。そういうサービスはやっていません。」

客は引き下がらなかった。

「前に別の店では普通にやってくれたぞ。一万出すから。」

「申し訳ありませんが、うちの店ではできないんです。」

ゆいが再び断ると、客の顔が変わった。声のトーンが下がり、体を近づけてきた。

「じゃあ何しに来たんだよ。九十分もいて、やることやらないってどういうことだよ。」

そう言いながら、客はゆいの腕を掴んだ。ゆいは振り払おうとしたが、力では敵わなかった。

ここから先のことを、ゆいは電話口で話せなかった。

「とにかく……何とか逃げて。ロビーにいます。」

中村は時計を見た。午後十時十二分。ゆいがホテルの部屋を出てから、おそらく十分ほどが経過している。

「ゆい、今すぐ山田さんを向かわせる。ロビーを動かないで。怪我はないか。」

「……体は大丈夫です。でも、服が破れちゃって。」

中村の手が震えた。怒りなのか、恐怖なのか、自分でも判別がつかなかった。

最初の三十分で判断すべきこと

ゆいの電話を切った後、中村は三つの判断を迫られた。

一つ目、ゆいの安全確保。ドライバーの山田にすぐ連絡し、上野のホテルへ向かわせた。ゆいは一人でロビーにいる。客がまだホテル内にいる可能性がある。山田には「ゆいの隣から離れるな」と伝えた。

二つ目、警察に通報するかどうか。ゆいの話が事実であれば、客の行為は刑法百七十六条の不同意わいせつに該当する可能性がある。デリヘルの営業中に起きた事件であることは、通報をためらわせる要因になる。しかし、法律上、デリヘルの届出を出して合法的に営業している以上、被害を受けたキャストが警察に相談する権利は当然にある。

三つ目、ゆいの意思をどう扱うか。通報するかどうかの最終判断は、ゆい自身が決めるべきだ。しかし、経営者としてゆいに「通報しなくていい」と言うことは、二度目の加害に等しい。かといって「通報しろ」と強制することも、ゆいの心理的負担を無視している。

中村はタクシーに飛び乗りながら、この三つを同時に処理しようとした。

ホテルのロビーで

午後十時四十分。中村がホテルに着いたとき、ゆいはロビーの奥まったソファに座っていた。山田が隣に立って周囲を警戒している。

ゆいは山田のジャケットを羽織っていた。シャツのボタンが二つ引きちぎられ、スカートの裾が裂けていた。顔は青白く、目が赤かった。泣いた後だった。

「ゆい。」

中村は向かいのソファに座った。距離を取った。この状況で男性が距離を詰めることが、どれだけ恐怖を与えるか、分かっていたからだ。

「まず、聞いていい。体に直接の怪我は。」

ゆいは小さく首を横に振った。

「腕を掴まれた跡が……あと、押し倒されかけたときに背中を……でも、それだけです。」

「それだけ、じゃない。ゆいが嫌だと言ったことを、無理にやろうとしたんだろう。それは犯罪だ。」

ゆいは俯いたまま、しばらく何も言わなかった。やがて、小さな声で言った。

「デも……私がもっとちゃんと断れていれば……」

中村はその言葉を聞いて、自分の胸の中で何かが折れる音を聞いた。

「ゆいは悪くない。断ったのに聞かなかったのは向こうだ。悪いのは百パーセントあの客だ。」

通報の判断

中村はゆいに二つの選択肢を提示した。

「一つ目。警察に被害届を出す。ゆいが受けたことは不同意わいせつに当たる可能性がある。二つ目。今日は帰って、後日改めて考える。どちらでも、俺はゆいの判断を尊重する。ただ、被害届を出す場合は早い方がいい。時間が経つと証拠が消える。」

ゆいは長い時間黙っていた。三分か、五分か。ロビーの自動ドアが開閉する音だけが聞こえていた。

「……出したいです。でも、怖い。警察に行ったら、デリヘルで働いてることが記録に残りますよね。」

中村は正直に答えた。

「残る。事情聴取では、どの会社で、どういう仕事をしていたかは聞かれる。ただ、デリヘルで働いていること自体は違法じゃない。届出を出して営業している店で、合法的なサービスを提供していたところに被害を受けた。法的にゆいの立場は守られる。」

「……じゃあ、出します。」

ゆいの目は怖がっていたが、声は決まっていた。

中村はその場で一一〇番通報をした。

警察での対応

午後十一時過ぎ、上野警察署に着いた。

ゆいは女性警察官に別室で事情聴取を受けた。中村は廊下のベンチに座って待った。山田はホテルの近くで車を回している。

事情聴取は二時間近くかかった。午前一時過ぎ、女性警察官がゆいを連れて出てきた。

「被害届は受理しました。今後、加害者の特定と事情聴取を行います。本日のホテルの宿泊記録と、防犯カメラの映像を確保します。」

中村はゆいの顔を見た。疲弊しきっていたが、泣いてはいなかった。

「中村さん、私、帰っていいですか。」

「山田さんが車で待ってる。家まで送る。」

ゆいを車に乗せた後、中村は一人で署の前に立ち尽くした。午前一時の上野の空気は冷たかった。

中村が自分を責めた理由

翌日の昼、事務所に一人でいた中村は、昨夜の出来事を頭の中で何度も反芻していた。

ゆいに起きたことは、客の犯罪行為だ。悪いのは客だ。それは間違いない。しかし、中村は自分の中に「防げたのではないか」という声がこびりついて離れなかった。

問い一、新規客のスクリーニングは適切だったか。答えはノーだ。中村の店では、新規客の身元確認は電話番号の確認と、ホテルの予約名の照合だけだった。名前も住所も確認していない。本人確認書類の提示を求めることもしていない。「そこまでやると客が逃げる」という業界の慣習に、中村は何の疑問も持たずに従っていた。

問い二、キャストへの安全教育は十分だったか。入店時の研修でNGサービスの説明はしていた。しかし、「実際に客から強要されたときにどう対処するか」のトレーニングは一度もやっていなかった。「嫌なら断ってね」──そんな一言で済ませていた。断れなかったときにどうするか。逃げるにはどうすればいいか。助けを呼ぶにはどうすればいいか。具体的な行動マニュアルは存在しなかった。

問い三、緊急連絡の仕組みは機能していたか。ゆいは被害を受けた後、自力でホテルの部屋を出て、ロビーに下りてから中村に電話をかけた。つまり、被害を受けている最中に助けを呼ぶ手段がなかった。接客中にキャストが緊急事態を知らせる仕組み──例えば、ワンタッチで店に通知を送れるアプリや、一定時間ごとの安全確認連絡──は何も導入していなかった。

三つとも、経営者として当然やるべきことだった。中村はそのすべてを怠っていた。

ゆいの一週間

翌日から一週間、ゆいは出勤しなかった。中村は毎日一回、短いメッセージを送った。

「体調どう? 無理しないで。出勤はゆいが決めてくれればいい。」

三日目に既読がついた。返信はなかった。五日目に短い返信が来た。

「ありがとうございます。もう少しだけ休みます。」

一週間後、ゆいから電話があった。

「中村さん、私、やっぱりもう辞めようと思って。」

中村は覚悟していたが、実際に声で聞くと堪えた。

「理由は聞かなくても分かるけど、聞いていい?」

「あの日のことは……まだ夢に出てくるんです。ホテルの部屋に入るのが怖くなっちゃって。お客さんと二人きりになるのが。」

中村には何も言えなかった。「大丈夫だよ」とは言えない。「次は守るから」とも言えない。一度守れなかった人間が言える言葉ではなかった。

「分かった。ゆいの判断を尊重する。ただ、一つだけ。もし今後、あの件で裁判とか手続きが必要になったら、いつでも連絡してくれ。できることは何でもする。」

「……ありがとうございます。」

電話が切れた後、中村は目を閉じた。ゆいの離脱は、月の売上で約三十万円の減少を意味する。しかしそんな計算をしている自分が、ひどく卑しい人間に思えた。

業界が見て見ぬふりをしてきたこと

ゆいが辞めた翌日、中村は業界の知人数人に連絡を取った。本番強要の被害にどう対応しているか、聞いて回るためだ。

返ってきた答えは、中村を打ちのめした。

「うちは『自分で断ってね』って言ってるだけ。実際に被害が出たことはないけど、出たらクビにして終わりだな」

「警察? 呼んだことないよ。面倒になるだけだろ」

「そもそも、本番要求なんて日常茶飯事でしょ。上手くかわすのがプロだよ」

中村は最後の言葉に吐き気がした。性的な暴力を「プロならかわせ」と言う感覚。この業界は、キャストへの加害を「よくあること」として処理してきた。経営者が見て見ぬふりをしてきたのは、客の行為だけではない。自分たちの無策を「業界の常識」という言葉で正当化してきたのだ。

中村自身も、その一人だった。

三つの対策

一月の最終週、中村は時間をかけて三つの対策を導入した。

一つ目、新規客の身元確認を義務化した。初回利用の客には、身分証明書の提示を条件にした。名前と生年月日を店側で記録する。「そこまでやるなら他の店に行く」と言う客もいたが、そういう客はそもそも来なくていい。この判断で新規客は約二割減ったが、トラブルのリスクはそれ以上に減った。

二つ目、「緊急通報ルール」を作った。接客中に身の危険を感じたら、すぐにその場を離れて店に電話すること。言い訳は何でもいい。「お腹が痛い」「店から急ぎの電話が来た」。理由を作って部屋を出ること。そして、接客開始と終了の際に必ず店へ連絡を入れるルールを新設した。接客終了の連絡が十五分以上遅れた場合、店側からキャストに電話をかける。それでも繋がらない場合、ドライバーがホテルに向かう。

三つ目、キャスト全員とのミーティングを行った。ゆいの件を匿名で共有し、「本番行為を断ったら逆上された場合の対処法」を全員で確認した。逃げ方。声の出し方。店への連絡方法。実際にロールプレイングで練習した。キャストのれなは「こんなことやったの初めて」と言ったが、終わった後に「やってよかった」とも言った。

この三つの対策にかかった費用は、ほぼゼロだった。仕組みを作り、ルールを決め、それを徹底する。必要だったのは金ではなく、経営者の意思だった。

一月の帳簿

一月三十一日。中村は事務所で月末の数字をまとめた。

一月の総売上:百六十二万円。十二月の百八十九万円から二十七万円の減少。年末需要がなくなったことに加え、ゆいの離脱が直接的に響いた。

固定費:七十二万円。新たな対策費用は特にない。利益は約九十万円──と言いたいところだが、ゆいへの見舞金として五万円を包んだので、実質八十五万円。

数字だけ見れば、悪くない月だった。しかし中村にとって、一月は数字では計れない月だった。

自分の店で、自分のキャストが傷つけられた。それを事前に防ぐことができなかった。経営者として、人を預かる者として、致命的な失態だった。

デリヘル経営において、キャストの安全を守ることは最低限の義務だ。それは「トラブルが起きたら対応する」ではない。「トラブルが起きない仕組みを作る」でなければならない。

中村がノートの最後のページに書いたのは、次の一行だった。

「守れなかったことは、忘れてはいけない。」

ゆいの名前を在籍リストから消すとき、ペンを持つ手が止まった。この名前の重さを、ずっと覚えいなければならないと思った。

二月が始まる。中村は新しいノートを開き、表紙に「二月」と書いた。

次回予告
次回は「売上が200万消えていた ─ 信頼していたスタッフの横領」。信頼していた右腕の裏切りが発覚したとき、経営者はどう動くべきか。