客からの脅迫電話 ─ クレームが恐喝に変わるとき

「写真と違う。金返せ」──深夜にかかってきた一本の電話が、やがて「ネットに晒す」という脅迫に変わった。開業3カ月目の経営者が直面した悪質クレーマーとの対峙と、そこから構築した危機管理の仕組みとは。

十一月八日。金曜日の午後十一時。

中村拓也は事務所で配車表を眺めていた。開業三カ月目に入り、ようやく経営が軌道に乗り始めた矢先だった。みくの指名が安定し、新人のゆいも週に三件ほど指名が入るようになった。今夜は五件の予約が入っている。この調子なら、十一月は初めて月間で三十万円の利益が出せそうだった。

午後十一時十二分、事務所の電話が鳴った。

「おい、どうなってんだ。」

男の声は、最初から怒っていた。

「話が違う」

電話の主は、名前を名乗らなかった。今夜九時にキャスト「あおい」を指名で呼んだ客だという。

「写真と全然違うじゃねえか。来たのはおばさんだろ。金返せ。」

中村は受付ノートを確認した。今夜九時の案件。六十分コース、一万八千円。鶯谷のビジネスホテル。あおいの指名。派遣済み。キャスト報告も上がっており、「接客完了。特記事項なし」と書いてある。

「申し訳ございません。ご不快な思いをさせてしまい──」

「謝ってんじゃねえ。金返せって言ってんだろ。全額だ。」

中村は、前の店で受付をしていた一年半の経験を思い出していた。この手のクレームは珍しくない。写真と実物の印象差は、デリヘル業界で最も多いクレームの一つだ。前の店では、次回利用時の割引クーポンを出すか、部分的な返金で対応していた。

「それでは、次回ご利用時に──」

「次なんかねえよ。今すぐ全額返しに来い。ホテルで待ってるから。」

中村は一瞬迷った。全額返金は店の方針として認めていない。六十分の接客は完了しており、サービスは提供されている。しかし客の声には尋常でない圧力があった。

「少々お時間をいただけますか。確認して折り返させていただきます。」

「三十分以内に電話しろ。しなかったら、どうなるか分かってるよな。」

電話が切れた。

折り返しまでの三十分

まず、あおいに電話をかけた。

「あおい、今夜九時のお客さんから苦情が来てる。何かあった?」

あおいの声は平静だった。

「え、何もなかったですよ。普通に接客して、終わった後も『ありがとう』って言われました。チップも千円もらいましたし。」

「写真と違うって言われてるんだけど。」

「……私、いつも加工しすぎないようにしてるんですけど。前の店でもそんなこと一回も言われたことないです。」

中村はあおいの写真パネルを確認した。確かに、極端な加工はしていない。背景のぼかしと肌の補正程度で、体型も顔の輪郭も実物と大きなずれはないはずだ。

次に、中村は前職の経験を整理した。「写真と違う」というクレームには、大きく分けて三つのパターンがある。

一つ目は、本当に写真と実物が違う場合。これは店側の責任で、返金や割引で対応すべきケースだ。

二つ目は、客の期待値が過剰に高かった場合。写メ日記やプロフィール写真はあくまで写真であり、実物と多少の差があることは業界の常識だ。しかし、業界を使い慣れていない客はそれを理解していない。

三つ目は、最初から返金を目的としたクレーマーだ。サービスを最後まで受けた上で、後から難癖をつけて返金を迫る。いわゆる「取り戻し」と呼ばれる手口で、悪質な場合は恐喝に発展する。

今回の客は、接客を最後まで受けている。あおいの報告では「ありがとう」とすら言われ、チップまで渡されている。つまり、接客中は満足していたか、少なくとも不満を表明しなかった。それが終わった後に「全額返せ」と電話してくるのは、二つ目か三つ目のパターンだ。

三十分のリミットが迫っていた。中村は時計を見た。午後十一時三十五分。

二回目の電話

午後十一時四十分。中村は折り返した。

「お待たせいたしました。確認いたしましたが、担当キャストの写真については大幅な加工は行っておりません。接客も最後まで完了しております。今回の全額返金は承りかねますが、次回ご利用の際に──」

「てめえ、ふざけんなよ。」

男の声が変わった。先ほどの怒りとは質の違う、低く据わった声だった。

「俺は客だぞ。金払ってんのに嘘の写真で騙しやがって。これ詐欺だろ。警察に言うぞ。」

「警察にご相談されるのは、お客様のご自由でございます。」

この一言を、中村は前の店長から教わっていた。「警察に言うぞ」と脅す人間は、ほとんどの場合、本当に警察に行くつもりはない。なぜなら、警察に行けば自分がデリヘルを利用した事実が記録に残るからだ。それを知っているから、脅し文句として使うだけだ。正しい対応は「どうぞ」と返すこと。

しかし、この客は予想を裏切った。

「じゃあいいよ、警察じゃなくて別の方法にするわ。お前の店のサイト、口コミに全部書いてやるよ。写真詐欺のぼったくり店だって。店名と場所も全部晒してやる。あと、お前の声録音してるからな。この電話も全部録ってるぞ。」

中村の手が冷たくなった。

「あと、あおいっていう女の顔写真、全部スクショ撮ってあるから。こいつの写真もネットにばら撒いてやろうか。この店では詐欺パネルで営業してますって。」

これは、クレームではなかった。恐喝だった。

一人で判断してはいけない

中村は電話を保留にした。正確には「少々お待ちください」と言って、ミュートボタンを押した。

心臓が早鳴りしていた。前の店で理不尽なクレームは何度も聞いてきた。だが、キャストの写真をネットに晒すという脅迫は初めてだった。あおいは源氏名で働いており、本名も住所も客には知られていない。しかし、顔写真と店名をセットで拡散されれば、身バレのリスクが生まれる。

中村が最も恐れたのは、自分がこの場で判断を間違えることだった。

前の店で店長が言っていた言葉を思い出した。「クレームと恐喝は別物だ。クレームは店で対応しろ。恐喝は一人で対応するな。」

中村はミュートを解除した。

「お客様のおっしゃっていることは、脅迫に該当する可能性がございます。これ以上の対応は弊社の顧問弁護士を通じてさせていただきます。なお、こちらの通話も録音しております。」

顧問弁護士はいなかった。しかし、中村がこの言葉を口にした瞬間、電話口の空気が変わったのを感じた。

三秒ほどの沈黙があった。

「……弁護士? 大げさなことすんなよ。別にそこまでの話じゃないだろ。」

声のトーンが明らかに下がっていた。中村は畳みかけた。

「お客様のお名前とご連絡先を改めてお伺いできますか。弁護士からご連絡させていただきます。」

「いや、もういいよ。もう使わねえから。」

電話が切れた。

中村は椅子の背もたれに沈み込んだ。シャツの背中が汗で濡れていた。

翌朝にやったこと

一夜明けて、中村の頭は冷えていた。昨夜を切り抜けたことへの安堵よりも、「次に同じことが起きたらどうする」という不安の方が大きかった。

顧問弁護士がいると嘘をついたことが効いた。だが、嘘はいつまでも使えない。次の脅迫電話で「じゃあ弁護士の名前を教えろ」と言われたら、その場で詰む。

中村は、翌朝に三つのことをした。

一つ目、通話録音アプリを導入した。月額三千円のクラウド型録音サービスに申し込み、事務所の電話を全件録音する設定にした。録音していることを客に伝える義務はないが、中村は受電時の冒頭メッセージに「品質向上のため通話を録音させていただいております」という一文を入れた。これは抑止力になる。

二つ目、弁護士を探した。風俗業界に理解のある弁護士は多くない。中村は同業者のつてを辿り、新宿で風営法関連の案件を扱っている弁護士事務所を見つけた。初回相談は三十分五千円。月額の顧問契約は三万円。今の経営状況では顧問契約を結ぶ余裕はなかったが、初回相談だけは受けると決めた。

三つ目、クレーム対応マニュアルを作成した。A4用紙二枚にまとめた簡潔なものだ。

前の店では、こうしたノウハウは店長の頭の中にしかなかった。文書化されていなかったから、中村自身もなんとなくの感覚でしか覚えていなかった。自分の店では、誰が電話を取っても同じ対応ができるように、紙にして貼り出すことにした。

マニュアルに書いた五つのルール

中村が作ったクレーム対応マニュアルの骨子は、次の五つだった。

第一条、最初の五分は聞く。客が怒っているときに反論しても火に油を注ぐだけだ。最初の五分間は相槌を打ちながら聞き、相手の主張を正確に把握する。

第二条、事実確認は「折り返し」で時間を作る。その場で即答せず、キャスト本人とドライバーに事実を確認してから折り返す。感情的な状態で判断を下さない。

第三条、「返金」の言葉は先に出さない。こちらから返金に言及すると、相手に「返金が当然の権利」という前提を与えてしまう。まずは状況に応じた代替案──次回割引、別キャストの案内──を提示する。

第四条、脅迫が始まったら対応を切り替える。「ネットに書く」「晒す」「殴る」「警察」など、脅迫に該当する言葉が出た時点で、クレーム対応モードから危機管理モードに切り替える。具体的には「弁護士を通じて対応する」と伝え、相手の名前と連絡先を聞く。連絡先を言わない場合は、こちらから連絡を取る手段がないため、それ以上の対応は不要。

第五条、一人で抱えない。悪質なケースは必ず弁護士または警察に相談する。「自分で解決しなければ」と思うのが最も危険な判断だ。

弁護士が教えてくれたこと

十一月十二日、中村は新宿の弁護士事務所を訪れた。

弁護士の早川は四十代前半の男性で、風営法関連の案件を年間三十件ほど扱っているという。中村が金曜夜のやり取りを説明すると、早川は淡々と答えた。

「まず、今回の客の行為は刑法上の恐喝未遂に該当する可能性があります。『ネットに晒す』という脅迫で金銭を要求していますから。ただ、立件するにはこちらから被害届を出す必要があり、その場合は店の営業実態も捜査対象になり得ます。風俗店の経営者が警察に駆け込むのは、実務的には多くの場合ためらわれるところです。」

中村は頷いた。それは分かっていた。

「重要なのは、抑止力を持つことです。通話録音は良い判断です。それに加えて、悪質な客の電話番号をリスト化してください。次にかかってきたら一切対応しない。着信拒否でかまいません。恐喝する相手は、対応すればするほどエスカレートします。反応しないことが最大の防御です。」

もう一つ、早川から意外な助言があった。

「中村さん、キャストのプロフィール写真に関するクレームを完全にゼロにすることはできません。しかし、リスクを下げる方法はあります。写真の下に『※写真はイメージです。実物と異なる場合がございます』という一文を入れてください。たったこれだけで、写真詐欺という主張に対する法的な反論材料になります。」

中村は相談料の五千円を払い、事務所を出た。顧問契約は結ばなかったが、いざというときに相談できる弁護士の連絡先を手に入れた。これだけでも、五千円以上の価値があった。

次の電話は違った

十一月下旬、再びクレームの電話が入った。

今度は別の客だった。みくを指名で呼んだが「態度が冷たかった」という内容だった。

中村はマニュアルに従って対応した。最初の五分間は聞く。事実確認は折り返して行う。みくに電話すると、「最後の方でお客様が少し酔っていたので、安全のために距離を取った」とのことだった。

折り返しの電話で、中村は丁寧に状況を説明し、次回利用時の二千円割引を提案した。客は「分かりました。次は素面で呼びます」と言って、電話を切った。

このやり取りに要した時間は、合計二十分だった。あの金曜夜の脅迫電話は二時間近く中村の神経を削ったが、マニュアルがあれば二十分で終わる。

システムの力だ、と中村は思った。

恐怖を仕組みに変える

十一月三十日。中村は十一月の数字を確認した。

総売上:百七十三万円。店の取り分:約百四万円。固定費:約七十二万円。利益:約三十二万円。

開業以来最高の数字だった。しかし中村の頭に残っているのは、売上の伸びではなく、あの金曜夜の電話だった。

この業界では、客からの脅迫は避けられない。女の子のトラブル、金銭をめぐる恐喝、ネットへの書き込み。いつ何が起きるか分からない。経営者が恐怖で判断を誤れば、払わなくていい金を払い、守るべきキャストを守れなくなる。

中村がこの一カ月で学んだことは、恐怖は消せないが、恐怖を仕組みに変えることはできるということだった。

通話録音で証拠を残す。マニュアルで対応を標準化する。弁護士の連絡先を持っておく。悪質な客はリスト化して排除する。一つ一つは地味な対策だが、これらが揃っていれば、深夜の脅迫電話にも冷静に対応できる。

中村は事務所のホワイトボードに, マニュアルの五カ条を書き写した。受付を手伝ってくれるようになったアルバイトの山田──以前はドライバー専任だった──にも読ませた。

「これ、全部覚えた方がいいですか?」

「覚えなくていい。ここに貼ってあるから、電話が来たら見ながら対応してくれ。」

午前零時を過ぎた。今日最後の案件の完了報告がみくから入った。

「お疲れ様です。無事終わりました。お客様、来月も指名しますって言ってくれました。」

中村は「ありがとう、お疲れ様」と返信してから、事務所の照明を落とした。

明日もまた電話が鳴る。その中にクレームがあるかもしれないし、脅迫があるかもしれない。だが、もう一人で対応する必要はない。マニュアルが隣にある。弁護士の番号が携帯に入っている。録音が回っている。

恐怖を「仕組み」にしてしまえば、あとはただ電話を取ればいい。

次回予告
第4回「ドライバーが事故を起こした ─ 深夜2時の判断ミス」では、送迎中の交通事故という突発トラブルに直面した経営者の判断と、保険・法的リスクへの備えを描きます。